ベトナムビジネス体験記

第十七回 文書主義

口達者なベトナム人たちは、交渉事の際には好き放題言ってくる印象が強いが、ダメで元々と考えていることも多く、あまりに深く気にかける必要はないかもしれない。大多数の生真面目な日本人は、相手からいきなり無理なことを要求されたりすると、それで怯んでしまうが、実際には相手も本気でそれを受け入れてもらえるとは考えていない。ただ、交渉を有利にするための先制パンチ程度の意味合いだろう。
あるいは、交渉事でなくとも、日常の場面で交わされる口約束もあまり意味をなさない。
一旦口にしたからには、その言葉の通りに、実行しなければならない義務があるとは考えないことが間々ある。彼らにしてみれば、口から出る言葉は、発した途端に消えてしまうもので、大して意味はないらしい。だから、好き勝手言えるのだろう。
だが、これを文書にしてお互いにサインすると様相はまったく違ったものになる。
文書にしてサインしたものこそが真の約束で、これはお互いに実行しなければならない義務となる。
だから、こうした文書の内容については、しっかりと吟味する。
家やテナントの賃貸契約には、一般的な雛型があって、大抵の場合は、この雛型を個々のケースの事情に合わせてアレンジする。契約書を0から作ると、お互いに自分の要求を好き放題言い合って、形にならないからだろう。

口頭の約束があてにならない分だけ、文書を作る機会は増えることになる。
取引先とのちょっとした面談のためのアポでも、正式な申入れとして、かつてはFAX、今ならメールの送信を要求され、電話だけの口頭の約束は嫌われる。相手へ何か要望しようものなら、書面にして社長のサインを取り付けていないと、まともに検討してもらえない。だが、こうした手続きをベトナム人たちは別段嫌がるふうでもなく、まめに行っている。ある意味、感心する。

今ではスタッフに任せることが多いのだが、かつてはこうした面談のアポイントも自分自身で行っていた。
アポを取った取引先でベトナム語で話していると、「あなたがベトナム語で会話ができるのはわかったけど、読み書きもできるの?」と聞かれることもあった。日本人にとって、ベトナム語は発音が難しいので、会話のほうが余程難易度が高いと思われるのだが、彼らの評価はそうではない。ベトナム人の言語の習得では会話以上に読み書きが重視されているということをこの質問で理解できた。
「読み書きもできますよ。実際あなたに送ったFAXは私自身で書きましたから」というとたいてい感心された。

我々アパレルの業界では、商品の生産に際し、材料の品質に難があると、ひとつひとつを吟味し、使用の可否を決めることがある。
そうした際、ベトナムの工場は、生地の難のある部分を切り取って、客の側に提示し、使っていいのかどうか、判断してほしいと言ってくる。それに対して、「これは良し」「これはダメ」と指図を出すのだが、その際に、必ずその生地サンプルに可否を記入し、サインをしてほしいと頼まれる。
間違いが起こらないようにとの配慮からなのだが、そのサンプルが膨大な量になることもあると、正直のところ、いささか辟易することもある。
顧客の中には、山のような標本を片手に、半ばうんざりしながら「私、生まれてこの方、他人からこんなにサインを求められたことないの。有名人になった気分だわ」と冗談交じりにサインしてもらうことになったりもする。

当事者のサインというのが、ポイントになっていて、本人の直筆のサインは、たとえば銀行のシステムに優先するようである。
以前も今も、家の家賃を銀行送金すると、相手は受取確認後、気を利かしてきちんと受領書を作り、サインしてくれる。裏を返せば、銀行を信用していないということなのか?
また、ホテルの宿泊料をクレジット・カードで支払いするときなど、本人確認のため暗証番号を押す場合でも、サインを要求される。「暗証番号を押したから不要だろう」と抵抗しても、彼らはサインのほうに固執する。最近では徐々に変わってきているが、以前は暗証番号とサインのどちら一方にしてくれというと、サインを求められることのほうが多かった。

秋利美記雄

プロフィール:1966年生れ。山口県下関市出身。1995年よりベトナム在住、大手商社勤務を経て、独立、アパレル専門商社及びコンサルティング会社を設立。 Qara Qoromo LLC.社長、My Lang Consultant Co., Ltd.取締役。 ベトナム語他語学に精通、現地企業との交渉は自ら行う。ベトナム在住歴16年。 アパレル情報ウェブサイト"Apparel Resource in Indochina"(www.apparelresource.asia/)を主催。

連絡先Eメール:info@apparelresource.asia

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